空気って一体なんなの?闘う相手を間違っては疲れるだけ
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職場、学校、家庭など人が集まりまた、共同作業や生活する上で付いて回る慣用句。「空気が読める、読めない奴」。KYとか表現されていた時もあったりと、対人における評価パラメーターの一つにもなった感があります。
先日、子供が見ていたアニメで「青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢は見ない」と言うタイトルだったと思いますが、用事をしながら何気なく見ていたところ、集団生活における様々な葛藤をテーマとした内容に興味が惹かれました。
今回は職場における空気について個人的な意見を交え考えてみたいと思います。
空気を読むって
一言で言ってしまえば協調性でしょうか。日本には古くから「出る杭は打たれる」とした表現から、突出した言動を快く思わない方は一定数います。またその殆どがリーダーに迎合する事を処世術としたスタンスではないでしょうか。つまり長いものに巻かれるとしたスタンスです。
会社内においても極ありふれた事で、職場内の雰囲気を空気と表現する事が良くあります。
空気が読める奴=出来る奴
空気が読めない奴=出来ない奴
そんな馬鹿げた方程式が成り立ってしまうほどの空気。これは閉鎖された空間の独特な世界観だと思います。
所謂、村社会と称される独自の風土、価値観が生み出す集団心理として、その考えに支配されてしまうと異なる価値観や新しい考えに抵抗感を感じてしまうのは仕方がない事かも知れません。また、長いものに巻かれるとした考えは余計な軋轢や衝突を避け、事なかれ的な状況を作る事で争いを回避したいともとれます。
場の空気(環境)の改善とは
職場の雰囲気としてこの様な空気が支配している事は、ほぼどこにでも存在していて、群として生活する人間の本能なのかも知れません。
例えば、ランチタイムにみんなで外食なのに、ひとりだけお弁当。はたまた、終業後、何気なくみんなで呑みに行こうかとなった時に不参加。
よくある光景ですが、何回も続くと「あいつはそう言う奴」としてお誘いも掛からなくなります。極端ではありますが、たったそれだけで「空気が読めない」レッテルを貼られる事も。利害が絡まない関係であれば筆者は全く気にもしません。しかし会社員にとって職場、取引先等、利害が絡む事が多く内外の情報収集は大切で、単なる迎合とは一線を期するものと思っております。
つまり、群を成すシチュエーションの時、何が目的なのかを明確に意識する事によって自身の見方を変える事。これが空気改善の一歩ではないでしょうか。
意見を述べる事の難しさ
上司、上役に対し意見を述べる事として、上申・具申とした表現がありますが単なる提案とした意味に捉えられる事はありません。内容によっては自身の進退に関わる事もあり、存亡を賭けた展開になる事も珍しくないのです。
人気ドラマであった「半沢直樹」。まるで水戸黄門かの如く勧善懲悪的な展開はスカッとしますが、最終回で関連会社への出向を命じられると言う、組織の理論を見せつけた展開で幕を閉じました。
上役への意見としては極端な例ですが、「出る杭は打たれる」の典型的なパターンであったと記憶に残っています。
「和をもって尊しとなす」
聖徳太子が制定したとされる十七条憲法の第一条に記された文言です。現代訳では「仲良くするのは尊いことだ」と広く捉えられており、大変美しい言葉でもあります。しかし、「わだかまりなく話し合うことことが尊いこと」、という意味であるとする意見もあり、この時代でも対人関係の難しさを改善しなければならないとした様子が窺い知れます。
今で言い換えれば「空気を読む」とした意味に捉え兼ねないかもしれませんね。
まとめ
筆者は次の様に考えています。
- 空気とはその場・環境を支配している集団心理
- 言動の成否に関わらず、集団での安堵感
- 異端者として集団から外れないための自己防衛
空気を読む事で自己防衛を図る。決して悪い事ではありません。寧ろ、自身の生活を維持しなければならない、即ち、生きて行くための手段となる事もあると思います。
一方では空気を気にする余り、過度なストレスやうつ病などの心の病になる事も少なくありません。
ひとつ言えることは、心身の健康が一番である事。目に見えない空気に支配されるのではなく、自身のアイデンティティの確立と周知が大切なのではと思っています。
では、今回はここまで。